他者への憤りの正体

人の事を身勝手だとか、

私はこんなに我慢しているのにとか、

 

「対他人」でしか自分を確認できないとしんどいと思います。

 

 

自分に全く関係ない、

噂で聞いた程度の誰か、通りすがりの人の行動や考え方について、

ゾ~っとしてみたり、軽蔑してみたり。

 

社会的な背景があることについて表明している意見ならわかりますが。

その人の個人的なことなんて、あんまり自分には関係ないのに、

憤って、ぐったりしてみたりして。

 

例えば、

席譲らない周りの人に対して怒るなら、

自分が譲れって言おうよ!って感じの。

 

なんか、そんなの、

どーでもよくない?

時間がもったいなくない??

って思うのです。

 

 

もしかしたら、

その時間を幸せな事に使えたかもしれないのに。

 

批判と不満で時を過ごしてしまうなんて、

勿体ないなあと思います。

 

 

潔癖なのは良いとしましょう。

でも、

それって、身勝手な自分の思いを相手に投影しているだけではありませんか?

 

嫌いなら、その場を立ち去ればいい。

したくないなら、しなければいい。

 

私は頑張ってる。

私はわかってる。

私はつきあってやってる。

私は我慢してやってる。

 

嫌ならやめちゃえば?

誰も頼んでないよ?です。

 

 

自分が選択してやめないのに、それを人のせいにするなんて、

それこそ身勝手な気がします。

 

 

どうしてそんなに、自分を守らないといけないのでしょう?

 

その「プライドのようなもの」は、

自信の無さと自分は認められていない、という思いからです。

 

心の底で、人を羨んで生きているとそうなります。

本当は、全然自分で頑張れてないのがわかっているからです。

 

頑張れてない自分を責めるより、周りを責める方が楽だから。

 

 

そこそこ、働いている。

そこそこ、勉強してる。

そこそこ、当たり前に暮らしてる。

 

全部そこそこで、別にやりたい事じゃない。

だからって、自分がやりたい事も解らないし、

ぬるま湯につかったような生活。

 

今の生活が壊れるのが怖いでしょうが、

その代わりにそのまま生きていると、自分の心を壊しています。

 

もっと必死になって生きてみたら、きっと変わります。

 

あなたが守っている自分というものは、

全然大したものではありません。

むしろ捨てた方がいいものです。

 

 

何でここまで言うかって?

それは私がそういう人間だったからです。

でも誰かが変えてくれたわけではなくて、

自分で気づくしかなかった。

 

もしあなたがそういう状態で苦しいのなら、

あなたの気持ちを理解できると思います。

 

 

自分が選択して起きた事象に対しては、

自分が幸せになれる選択をしたいものですね。

 

あなたもきっと、できます。